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織部獅子香炉の解説

 「青織部獅子鈕香炉」の意義    特別寄稿 古田織部研究家 久野 治
ORIBE美術館展示 慶長拾七年銘 青織部獅子紐香炉
まえがき
ここに展示いたします「青織部獅子鈕香炉」は、高さ20.9センチメートル、奥行き19.7センチメートルで、慶長17年(1612年)美濃(岐阜県)土岐久尻(土岐市泉町久尻)の元屋敷窯の窯大将である加藤四郎右衛門・景延により、名古屋(名古屋市熱田区)の熱田神宮に奉納されたものであります。加藤景延は土岐の陶祖で、土岐市の清安禅寺に祀られております。

「青織部獅子鈕香炉」は、どのような経過を経たかは分かりませんが、一個は東京の国立博物館。いま一個は岐阜県恵那市にお住いの神谷昭吾氏のもとにありました。同じ時に同じ目的で奉納されたものと思われます。このたび、神谷氏のご協力とおはからいによりORIBE美術館で展示することになりました。

香炉は岩村藩(岐阜県)の城下町で、江戸時代(1601〜1868年)松屋を屋号とする勝川家で400年の長きにわたり秘蔵され、伝世されたものであります。岩村城は桃山時代は織田信長家臣、森長可(蘭丸兄)、森忠政2代が城主でした。森城主こそ信長・秀吉時代美濃の領主として古田織部とともに美濃焼誕生に大きく関わった城主です。(後代、岩村藩は佐藤一斎、下田歌子等を輩出して有名であります。)

城下町では木村家、浅見家、勝川家の旧ご三家があり、中でも勝川家は材木、年貢米をあつかう豪商で、母屋の裏には三千俵のお米を納めたと伝わる米蔵が残っており、現在は一斎塾の事務所となっております。

一斎塾は『言志四録』の著作で知られます岩村藩の儒学者、佐藤一斎(1772〜1859年)の教えを学ぶグループで、(さきの小泉総理大臣が採りあげられたことで一躍有名となりました)
屋根裏の建物は蕎麦屋「ゆい」として使われており、また平成15年(2003年)からは隣接する建てものを整備して「江戸城下町の館・勝川家」がオープンしております。
 「青織部獅子鈕香炉」の意義
香炉の出来栄えが素晴らしいこと、格調の高い逸品であることは、申しあげるまでもありませんが、私が、この香炉に注目するのは古田織部(1544〜1615年)の切腹の原因が秘められている、ということであります。

すなわち、私の織部ハト派説の裏付けとなる証拠物件とでも申せましょう。時代の背景は東(徳川)と西(豊臣)のあいだの風雲があやしく、一触即発の状況にありました。豊臣秀吉の遺子・秀頼が二十歳を迎え、片や徳川家康は七十一歳、将軍職は秀忠にゆずっているものの、駿河(静岡市)にあって大御所としての威光はゆるぎなく、幕府を支配下においておられました。

いっぽう二代目将軍・秀忠の茶道指南役という要職にあった古田織部は、西側(豊臣)にあり茨木城主でもある片桐且元(1556〜1615年)と手をたずさえ、徳川・豊臣両家の平和共存は出来ないものかと、江戸下向をいたしました。ときは慶長17年(1612)8月11日であります。織部は翌18年(1613)の3月まで江戸(東京)に滞在して、茶会をひらいております。

それは幕閣の要人への茶会をつうじての和平工作であったと思われます。当時の封建制社会では、権力者の権限は絶対であり、これに逆らうことは決死の覚悟が必要でありました。この間、織部は二回ほど徳川家康にもじきじき会っております。おそらく豊臣家討滅を思い止まるよう進言をしたでありましょう。

その命をかけた思いで江戸下向をする織部の、心境を察して和平工作の成功を祈願したのが美濃の窯ぐれ、総意をになった窯大将・加藤景延であり物証としての「青織部獅子鈕香炉」であります。

歴史の証言者としていずれの香炉にも“熱田大神宮”“慶長十七年”“九月吉日”“寄進仕候”という文字が、くっきりと印刻されております。加えて加藤景延は、万が一、和平工作が不首尾であったときの、累のおよぶことを恐れて、東京博物館蔵香炉には寄進者名を加藤左衛門と刻んでおります。またこの作品には寄進者名は書かれていません。

そこで私は、加藤家菩掲寺である清安禅寺(元屋敷窯の北)で、加藤家の系譜を調べました処、左衛門は景延の弟にあたる景頼で、すでに十五年も前に夭折した人物であることが分かりました。すなわち景頼は慶長2年(1600)10月11日に死去しています。

さらに景延が名古屋の熱田神宮をえらんだのは、思いおこせば永禄3年(1560)尾張(愛知県)の織田信長(1534〜82)が清州城(清須市)をでて、熱田神宮にて戦勝祈願をして桶狭間で今川義元(1519〜60)を破った縁起を担いだものと思われます。(なお同年は古田織部が左介とよばれていた十七歳で、信長(27歳)のもとへ使い番として仕官したときでもあります。)

「青織部獅子鈕香炉」は、武将でありながらハト派(平和主義)であった古田織部が、後世に残した歴史の証言であります。

解説 久野 治

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