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織部焼伝世品の美しさの秘密と、織部焼き誕生の歴史的側面についての考察  

桃山茶陶の格別の美しさの秘密     解説 ORIBE美術館 西村克也

織部焼きに代表される美濃古陶は16世紀の終わりから17世紀の初めにかけ、現在の岐阜県東濃地方で生まれた焼き物です。美濃古陶の伝世品の美しさは「格別」と言われる秘密をわかりやすく解説したいと思います。また美濃古陶誕生の歴史的背景と歴史的事蹟についても分かりやすく解説致します。

桃山時代の織部茶陶には、生焼け等の不良品として物原に捨てられた資料(発掘品)と、完品のまま400年間代々旧家に伝えられ保存されてきた伝世品があります。発掘品は少なくなったとはいえ、まだ市場にはある程度は残存していますが、元々が不良品のため美術価値、商品価値は劣りますが資料としては大変貴重です。

桃山時代の織部茶陶の伝世品(鉢、茶碗,、向付、水指など)は、日本的な味わい深い美しさと凛とした品格を備えています。そして不思議なことですが、世界のいかなる食器と比較しても比較にならないほど斬新、奇抜なデザインでありながら、破格の品と美しさを持った作品のみが残されております。

(焼き物はその国のバロメーター)

焼き物はその時代の文化や国力を反映させるものとして、焼き物を見ればその国力や文化レベルがわかると言われます。日本の縄文時代の焼き物は人類最古の焼き物と言われております。日本では縄文時代から現代に至るまで焼き物が焼きつがれてきました。

織部焼きを誕生させた桃山時代は激動と変革の時代でした。織田信長は旧来の特権階級の権益を解体し硬直した経済の活性化を成し遂げました。また金鉱発掘技術を進展させたため、日本は世界有数の金産出を誇り、一方では建築ブームが起き、日本の国力は富み、活気に満ちた時代となりました。

また文化面においては、平安、鎌倉、室町時代に培われてきた日本伝統の文化のレベルは高く、また、新しい文化が生まれ、文化面でも活力に満ち溢れた時代でした。

桃山時代は経済的、文化的に力をもった商人(町衆)が堺市を中心に生れました。そして町衆によって茶道文化(日本の文学、芸術、食文化、伝統文化、仏教(禅)思想などを総合的に体系付けた茶の湯、わび茶)が千利休などによって体系付けられました。織部茶陶は使うための器ですが、茶道文化、または茶道芸術の美の結晶の産物として、桃山時代を最も色濃く反映した焼物といえます。

(織部茶陶は桃山時代の織田信長。豊臣秀吉の官窯)

破格の美しさを生み出した理由として見逃されていることは織部茶陶(美濃古陶)は時の最高権力者の織田信長と豊臣秀吉によって(国策)として生み出された焼き物であったということです。日本版の官窯(個人の窯でなく、政府管理(権力者)の窯)であったということです。

一般的な日用品と茶陶は同じ窯を利用して焼成しましたが、茶陶製品と日用品は全く別管理がされておりました。いわゆる日用雑器は陶工個人(窯元)の現金収入として、陶工の自由販売、自由商売が許され、認められておりました。職人の食い扶持(給料)はこれでまかなわれておりました。しかし茶陶に関しては全て最高権力者の織田信長が直轄管理しました。

窯業生産の管理育成は信長重臣の美濃の森領主(長可)が信長の信任ををうけ厳しく管理していたようです。また流通についても茶陶については信長指定の業者が担当し、収入は織田信長の収入であったようです。

桃山時代京都の唐物商(瀬戸物商)で陶工として有名な美濃生まれの有来新兵衛初代,2代(信長制定の瀬戸6作と同名)などが流通に関わった人物とみられています。(昭和になり京都の有来新兵衛屋敷跡から美濃古陶が1500点以上も大量発掘され話題を呼びました。これは美濃古陶の流通に有来新兵衛がかかわっていたことの歴史的事蹟の証明とみられております)

この管理システムは豊臣秀吉も同じ路線を引き継いだようです。

桃山時代の美濃古陶(茶陶)の流通は、従来考えられてきた名もなき陶工が市場の要請に応えて作品を制作して販売したものではなく,、織田信長、豊臣秀吉の管理の下で組織的に生産され組織的管理のもとで流通された歴史事実があります。

徳川時代桃山文化が抹殺されたこともあり美濃古陶研究において当時の政治的背景との結びつけがなされておらず、また資料不足で困難な部分もありますがこの欠落を埋めない限り美濃古陶の真実が見られないように思われます。

(それではその歴史の一端をのぞいて見たいと思います)

織田信長、豊臣秀吉2代にわたる文化重視政策が桃山文化を生んだ
桃山時代の統治者、織田信長は自らが日本の文化や美術品の価値と重要性がわかる人物でした。堺の今井宗久(町衆、豪商)に茶を学び宗久の勧めで千宗易(利休)を茶頭に用いました。

織田信長は、文化が国の建設にとって重要であることを知る統治者でもありました。信長は当時世界最高の茶碗と評価されていた中国の窯変天目,油滴天目、白天目等を自ら所持し、中国の陶器の技術の高さを熟知していました。

織田信長は中国(世界)に勝る美術茶陶を日本(美濃)で生み出すため、陶器産業の育成と保護政策を断行したのではないかと考えられます。このような日本版官窯の発想を実行したのは、織田信長が日本では最初の人物ではないかと思います。

(織田信長の名家6作(瀬戸6作)は歴史の真実で6人の作家は実在の人物)

織田信長は瀬戸の陶器産業集団(加藤一族)の長(加藤景光)に朱印状(窯業の保護)をだし永禄6年(1563)瀬戸6作を制定し、日本で初めて6人の名工(名家)に窯印を与え優遇し、茶陶生産に力を入れました。これは陶工を「職人」と「芸術家」に区別したことで織田信長の天才的なところだと思います。現在の人間国宝、文化勲章保持者の原点になるものです。

美濃古陶の本格的な始まりは、歴史の記録では永禄6年(1563)が始まりと考えられております。茶会記に瀬戸茶碗が初めて当場(今井宗久茶湯日記)するのも永禄6年です。それ以後今井宗久の茶湯日記には頻繁に瀬戸茶碗(黒茶碗、島筋茶碗、、赤色茶碗、瀬戸水指など)が登場します。歴史の記録と茶会器の記録が一致します。

初期の美濃古陶の誕生には織田信長の命令により、茶頭であった今井宗久(と千利休)が、信長統治の期間(永禄6年1563〜天正10年1582)美濃古陶育成に大きく関わったことは充分に考えられるところです。

永録12年、森可成、美濃金山城主、千利休とともに堺津田宗久の茶会に招かれている。森城主は信長が美濃茶陶育成のため任命した美濃城主と言われ、この茶会参加は織田信長のはからいによるものであり、信長の美濃古陶にかける気迫が伺えます。

また織田信長は陶器産業を保護するために、陶工の税金を免除し、楽市楽座という自由市場を岐阜に(1567年永禄10)開き陶器商人には国の往来を自由にし経済の活性化をはかりました。

(加藤景光は瀬戸六作の一人で実在の人物です。天正11年長男景延と久尻元屋敷窯(北窯)(東窯)の大窯を開いた記録があり、瀬戸黒・志野・ねずみ志野・黄瀬戸などが大窯の窯跡から出土している。

加藤景光(1585天正13年没73才)の朱印状(信長が発給)も現存しています。景光は元屋敷窯の陶祖加藤景延の父で土岐市の清安寺に祀られています。志野焼きの発明者と伝えられる名工で有り、初期の志野焼きは天正5年頃に完成し天正13年ころは最盛期であったと考えられます。天正7年牧村兵部が茶会記に歪み茶碗を使用とあり、志野茶碗の可能性が指摘されております。志野ははその後、慶長時代まで焼かれたと考えられております。

(美濃古陶は信長家臣の森城主が管理)

永禄8年織田信長は家臣で一番信頼の厚い実力者の森可成(信長側近の森蘭丸の父)(今川との桶狭間の戦いで織田信長に奇襲作戦を進言した織田信長にとって最重要人物)を美濃領主と定め、行政面からも窯業育成に本格的に力を入れました。永禄6年から加藤景豊などが瀬戸から美濃大平に移り大窯を築いております。

瀬戸の陶工はこれを境に信長統治の美濃に大移動を始めます。これにより瀬戸加藤一族と森城主(可成・長可・忠政3代にわたる)による本格的な美濃窯展開が始まるのです。美濃生まれの古田織部は織田信長の使番として度々美濃に来ていたと言われ、間接的ではあるが古田織部は早い段階から美濃焼と森城主・瀬戸陶工とのかかわりがあったと考えられます。

信長統治の永録年間天正年間は天目茶碗、瀬戸黒茶碗・志野茶碗・黄瀬戸水指し、茶碗などが多く焼かれたと考えられております。このことは窯跡の発掘事蹟と茶会記の記録などの歴史的事蹟が証明しております。

(豊臣秀吉は古田織部を抜擢起用)

豊臣秀吉は広く茶道の普及を行い1585年(天正13)古田織部を3万5千石の大名に取り立て、織部正(国の産業大臣のような役職)の重要ポストに付け茶陶生産の全て(商品企画、流通、生産体制、品質管理等)を任せました。

陶器産業の育成については織田信長の方針を引継ぎ発展させました。美濃焼を管轄する美濃の金山城主は代が変わり森長可から弟の森忠政(天正16年1588)となりますが古田織部とは婚姻により義理の叔父、甥の親戚関係になります。織部は美濃領主と親戚関係となり、さらに力を発揮しやすい立場となりました。

豊臣秀吉は美濃茶陶を豊臣家の直轄管理としてさらに美濃茶陶の育成を強固なものとしました。


(古田織部と森城主と陶工集団の活躍)

古田織部は利休没後は関白秀吉の茶頭となり、天下第一の茶人と言われる大名となりました。古田織部は最初に仕えた主君である信長の意思(瀬戸6作)に習い美濃名工に織部10作を制定(天正13年1585)し名工10名に窯印を与え、茶陶生産に全力を傾注しました。織部が本格的に美濃茶陶に関与するのは天正13年(1585)です。古田織部も織田信長の意思を引継ぎ森領主(忠政)、瀬戸陶工(景延)と力を合わせ美濃茶陶の育成を図りました。

美濃に導入した唐津式の登り窯導入は森城主と古田織部が加藤景延に命じそれを受けた景延が唐津で学び美濃に築窯(1601慶長6年)したものです。また唐津の城主と美濃の妻木城主は姻戚関係にあり古田織部のお茶の弟子でした。古田織部の力によりこのようなことができたのです。それが美濃最初の登り窯、連房式元屋敷窯です。

窯大将加藤景延の慶長7年記名の志野風の「干網文志野織部鉢」(ORIBE美術館蔵)が現存しており初窯は慶長7年の可能性も考えられます。織部の秀品は隠居窯(景延の父,景光の隠居窯)などでも焼かれましたが、織部や志野織部の秀品の大半は元屋敷窯で生産されました。元屋敷窯は慶長年間、織部焼きを中心に美濃古陶全般にわたり、豊臣時代の窯の座(中心となった窯)で桃山時代を代表する官窯といえます。

桃山時代の茶陶誕生はは茶道文化に造詣が深い二人の最高権力者(織田信長、豊臣秀吉)の強力な庇護があったこと。そして天才芸術家古田織部、産業の育成管理をした森城主による組織的な指導管理。そして200年の伝統技術を持つ瀬戸の陶祖、加藤四郎左衛門,景正(唐四郎)一族の桃山時代の長,加藤景光、景延,景豊,源十郎など瀬戸6作、織部10作など美濃の名工達の窯技術。これらが情熱のダイナミックな融合、そして総意を結集して生まれたものであり、その総指揮官として活躍したのが古田織部なのです。
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美濃古陶の作品は、日本第一と言われる名工達が古田織部の指導の下、自らの持てる技の極限に挑戦し、競いながら、創造の限りを尽くし命懸けで生み出した自信に満ちた不朽の作品なのです。

織部焼きは貴人の重要な茶席で用いられた
特に美濃古陶は大名や町衆(堺や博多奈良の富豪)や朝廷の貴人などが需要者でした。また個性を最大に大切にする人たちでした。

これら貴人といわれた人たちが一番大切にしたのは「茶の湯」でした。商談や秘密会議などでの最高のもてなしは茶の湯でもてなすことでした。

織部焼きや志野などはそのような重要な席にしばしば使用されたのです。(歴史の記録として茶会記にセト茶碗・黒茶碗・ゆがみ茶碗・赤茶碗などと記録されている)

桃山時代は長い抑圧の時代から開放され活気に満ちた時代でした。また武将たちの間で当時バサラの思想(自由豪快で権力に媚びない個性的な生き方考え方)が流行しました。

個性を尊ぶ需要者は茶席で使用する水指や茶碗、鉢、向付、花生、茶入、香合、香炉など新しく生み出された茶道具を競って求めました。

桃山時代は茶碗1つに城1つといわれるほど良いもの、高価なもの、個性的なものが好まれ尊ばれたという時代背景がありました。

(桃山茶陶の凛とした品格の秘密)

桃山時代の茶陶には凛とした品格が備わっている。後代の名工が「桃山の品格だけは真似ができない」とよく言われます。その点について少し述べてみたいと思います。

美濃古陶誕生の時代の背景は、茶道が町衆の茶の湯から大名の茶の湯に変わった時期と一致します。大名たちは戦乱の日々を送り、明日をも知れぬ命を常に自覚しなければならず、一日一日を命の危険に晒し、真剣に、凛とした孤高の精神で生きていました。志野茶碗などの織部茶陶はそのような大名達が使用した器です。織部茶陶はこのような時代背景から誕生した器です。

志野や織部の模様には自然を題材にした模様のほか、初期の作品には,身命を守る願いを込めて作られた作品が多く見られます。文様は芸術的に描かれておりますが、神社の鳥居文・亀甲文・六芒星、五芒星,卍文、籠目、クルス文、しめ縄文・神社の橋・檜垣文、家の門柱、など全て神仏に鉄砲や弓矢の難を避けるための、安全を祈願をこめた文様であることは間違いないと思われます。器の造形も不動の精神をおもわせる力強さが感じられます。

陶工は茶碗を使う大名の身の安全、吉祥の願いを込めて作品を制作したものと思われます。また生きることへの真剣な精神が大名と陶工の間に一体となり共通して流れていた。それが作品に現れ、凛とした品格を生み出していると推察できます。

(桃山時代の茶陶は豊臣により国が安定した慶長年間になると遊び心のあるユーモアのある図柄や異国文化を取り入れた模様の作品も多く見られるようになります)

(駄作を出さない厳しい品質管理)

美濃古陶の伝世品には駄作、失敗作というものは、全くと言ってよいほど流通しておりません。本質的には格式ある重要な茶席で使える質の高い作品しか作らず、市場には粗悪品は出さないという、厳密な管理が幾重にもされていたからだと思います。厳しい品質管理は、織田信長の指導(のちには古田織部の指導)により徹底されていたのではないかと推察されます。目利きで有名な陶工であった有来新兵衛が唐物商(美濃茶陶専門の御用商人)として京都市場の先端で活躍したのも、有来新兵衛が最終出荷の厳しい管理を任されていたものと思われます。

(その2に続く)


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